COLUMN

【公式コラム】

【コラム】今年のノーベル賞受賞に寄せて

著者 岡村 元義

2024年12月27日

 ●被団協のノーベル平和賞受賞に思うこと

 日本の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞した。

 筆者の父は広島で被爆し筆者は被爆2世であるので、今回の被団協のノーベル平和賞受賞は感慨深いものがある。父は旧制中学4年(16歳)のとき学徒動員で三菱造船所に駆り出されているときに被爆した。幸い造船所の壁により爆風から命を救われた。原爆投下後すぐに帰宅するよう上司から指示が出て広島市北部の家に帰ろうとしたが、無数の遺体、全身の皮膚がめくれた人たちが助けを求めて近づいてきたりしてまさに地獄であったという。自転車で通常1時間ほどで帰宅できるところ、1日がかりでようやく家にたどりついたという。父の場合、家族が全員無事であったので、被爆時広島にいたことが明確に証明でき速やかに原爆手帳が交付された。  

原爆手帳は最強の健康保険証で、医療費が終生完全無償である。しかし、父は気丈な人であったので、この手帳をほとんど使うことなく生涯を終えた。

父は3年前92歳で亡くなった。死因は心筋梗塞であった。急に胸が痛むというので広島ハートセンターに緊急入院した。知らせを受けて筆者が病院に行ったところ、担当医がカテーテル治療を施すか迷っているところであった。何と父の心臓はとてもいびつな形をしていた。左心房の冠動脈が途切れて左心房が委縮しており、左心房が働かないのでそれを補うために右心房が肥大化するという奇形だったのである(図1)。おそらく被爆してから75年もの間この奇形の状態で心臓が動き続けていたのではないかと医師の診断であった。「残念ながら血管を広げるという治療もできないのでこのままにしておきます」との医師の診断が下され、2時間ほどして父は亡くなった。奇形の原因は放射能被爆だろうとの結論になった。でも92年目の大往生であった。

 

原爆放射線の発がん率への影響

 戦後まもなく原爆の放射線の人体への影響を調査研究するために米国原子力委員会の資金によって原爆調査委員会(通称ABCC)が設立された。最初は原爆を投下した米国主導で原爆放射線による健康被害の調査が行われていたが、日本国民の健康を守る目的で厚生省予防衛生研究所(通称予研)が加わり、1974年より日米共同で原爆放射線の健康への影響を調査研究する放射線影響研究所(通称放影研)になった。

 原爆投下後80年余り経過し、放射能の人体への影響、特に発がんへの影響については膨大なデータが放影研のライブラリーに保管されている1)。被爆時広島市の人口は35万人、被爆後60日以内に亡くなった人は9万人~16万人、被爆した人がいた場所の放射線量にもとづき、被爆後60日以内でLD50となる被爆線量は2.7 – 3.1 Gyと計算されている。また放射線の発がんへの影響について、発がんおよび死亡した人がいた場所の被爆線量から、2.0 Gy以上の被爆量では100%白血病で亡くなっていることがわかった(図2)。

 現在広島県で被爆者手帳を所持している人は13,000人ほどであるが、被爆当時市内にいた直接の被爆者はわずかになっている。生前父も語り部をしていたが、現在広島文化センターに登録している被爆体験証言者は20人ほどになってしまった。

 ●原爆からの復興

 原爆投下から30年余り経ったころ、筆者は父が学徒動員で通ったのと同じ道を家から大学まで6年間通った。終戦から30年も経って広島の復興は著しく、見違えるように都会的な街に生まれ変わった。しかし原爆の壊滅的な状態から完全復興するまでの長い間、広島の人々はつつましい生活を強いられた。筆者が大学に自転車で通っていた道筋に“原爆スラム街”という地域が残っていた。最初で唯一の被爆国を世界にアピールするのにこのみすぼらしい一帯は広島の”恥”であった。行政はこの原爆スラム街のバラック家を取り壊し、住民を残らず高層アパートに移住させる事業を急いだ。筆者が大学を卒業する時には完全に原爆スラム街はなくなって、原爆ドームと記念館以外は原爆の悲惨さを微塵も感じさせない美しい平和な街になってしまった。

 ●今年のノーベル医学生理学賞受賞に思う

 今年の医学生理学賞は、人の遺伝子の働きを制御するマイクロRNAを発見した二人の米国の学者に与えられた。昨年のDrew Weissman、Katalin Kariko博士のmRNAの実用化に続くRNAについての受賞は生命のしくみを明らかにする重要な発見だと筆者も思う。今年の医学生理学賞受賞について筆者には別の思いがある。このマイクロRNAの役割を発見するに至った研究材料は線虫という1mmほどの小さい生物である。線虫は学名Caenorhabditis elegansといい、和学名でC エレガンス(ラテン語で優美の意味)というにはどちらかというとミミズのようにグニャグニャと気持ち悪いし、飼育していると臭い生き物である。筆者が大学院に進むときに、どんな研究がしたいか悩んでいて、学部の図書室でこのC エレガンスに関する論文を見つけた。その論文のタイトルは、

 Cエレガンスの成虫はたった959個の細胞で構成される生き物である

 その著者はJohn Sulstonという英国の生物学者である。Sulstonは線虫の1個の胚細胞が、細胞分裂を繰り返しながら神経、口、消化器などの器官に分化していき、最終的に959個の細胞で構成される生き物になることを実に地道な顕微鏡観察によってつきとめた2)(図3)。今のように微分干渉顕微鏡のような高性能の分析機器などない時代に、分裂していく細胞が最終的にどの器官の細胞になるのか、959個の細胞ひとつひとつの分裂と分化の過程を完全に追跡した最初の研究である。実はこの愚直で地味な研究が今年のノーベル医学生理学賞受賞の研究につながるのである。

細胞生物学者と分子生物学者  

今年のノーベル医学生理学賞を受賞したVictor AmbrosとGary Ruvkunは分子生物学者である。その分子生物学者たちが、愚直な細胞生物学者の研究をもとに、遺伝子の発現調節にかかわる重要な発見をしたのである。彼らは、発生中の遺伝子プログラムの活性化のタイミングに欠陥が見られるCエレガンスの2つの突然変異個体、lin-4とlin-14を研究材料に選んだ。Cエレガンスは、異なる細胞タイプがどのようにして発生するかを理解する上で有用なモデル生物である(図4A)。彼らはこの2つの変異を引き起こす遺伝子lin-4およびlin-14を見つけ、そのうちのlin-4遺伝子産物がlin-14個体の変異を抑制することを突き止めた(図4B)。Ambrosがその抑制遺伝子産物を調べたところ、lin-4遺伝子がタンパク質をコードしない、わずか22塩基の長さのRNAであったのでこれをマイクロRNA(miRNA)と名付けた。一方Ruvkunはlin-14遺伝子をクローニングし、それぞれの実験成果を電話で共有しながら、lin-4マイクロRNAの配列がlin-14 mRNAの相補的配列と一致していることを発見した(図4C)。つまり、タンパク質をコードしないマイクロRNAが、タンパク質をコードするmRNAの発現を制御していることを初めて発見したのである。

RNAは単に遺伝情報を翻訳してタンパク質を作り出すメッセンジャーの役割だけではなく、遺伝子発現を制御する重要な役割を担っていることを発見したことが今年のノーベル賞を受賞した研究成果である。図5にRNAの分類と役割を整理しておく。

Cエレガンスがたった959個の細胞でできている生物であることを突き止めたJohn Sulston博士は2002年にこの愚直な研究でノーベル医学生理学賞を受賞している。

 以上、今年を振り返って、2つのノーベル賞受賞について思いを馳せてみた。

 原爆による健康被害は、科学の負の活用によって生じた。放射線そのものが悪なのではなくその使い方が悪である。ロシアがまさにウクライナに対して核を使用することをほのめかしているが、この愚行だけはやめよ、と切に願う。

 John Sulstonは生物の発生過程を明らかにするためにCエレガンスを研究材料に使ったが、進め方は愚直で決してエレガントな方法ではなかった。しかしこの愚直さが生命の営みや病気の原因を解明するのに重要であるのだなと改めて思った。

 愚行と愚直、全く異なる言葉であるのだ。昨年受賞のWeissman、Kariko博士らといい、今年受賞のAmbros、Ruvkun博士らといい、ふと疑問に思ったことを愚直に問い続けた。新しい発見とはそういう愚直なこだわりから生まれるのだろうと改めて思う。

参考文献

  1. 放射線影響研究所HP 論文・データライブラリー、放射線の健康影響.
  2. The embryonic cell lineage of the nematode Caenorhabditis elegans, J. Sulston et.al., Developmental Biology, Volume 100, Issue 1, November 1983, Pages 64-119.
  3. https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2024/press-release/
    The Nobel Committee for Physiology or Medicine. Ill. Mattias Karlén.